alternation








「………よし、今夜だ」

「何か言った?」
隣を歩いていた男が何事かを呟いた気がして、アリスは反射的に振り向く。

すらりとした痩躯。
長身ではあるが、後ろを歩く部下たちと比べると、大分華奢に感じる。
だが、ついこの間までは光に透けてしまいそうだった肌の色も、最近ではようやく少し赤みを帯びてきた。…といっても、普通の健康な人に比べれば、まだまだ白いのだが。
それでも少しずつ、目に見えて確実に症状は軽減されてきている。

ようやく観念して通い始めてくれた病院の帰り道、横にいるナイトメアを見上げて、アリスは改めて安堵した。
「本当によかった。あなたが元気になってくれて」
声にも自然、優しい響きが加わる。
「お医者様も、この分なら投薬だけにしても大丈夫そうって言ってたわね」

長年の病院嫌いを何とか克服し、数時間帯おきに診察に通うようになってしばらく。
咳き込むだけでなく、頻繁に血まで吐くナイトメアの病状は、一体どれだけ深刻なものなのかと心底不安に感じていたアリスだったが、実際医師に診せてみたところ、要は長年放置し続けた結果の病状悪化というわけで、診察と投薬を継続すれば快方に向かうものだと言われてしまった。
もっと…こう、なんだかよく分からない難病だったりするのかと考えていた分、毒気を抜かれたのも事実だった。いや、もちろん安堵する気持ちの方がずっとずっと大きかったのは間違いないが。それでも、
(なら、もっと早く克服しときなさいよ……)
医師の説明を一緒に受けながら思わずそう思いかけて、慌てて思考を遮った。
とにもかくにも、この頑固な夢魔がようやくその気になってくれたのだ。
人の心を読める彼が、こんなところで臍を曲げてしまってはかなわない。

「いつまでも君に、迷惑をかけるわけにはいかないからな!」
晴れ晴れとさえ見えるナイトメアの表情に、アリスも素直に嬉しくなる。
「早く帰りましょう。今日は仕事の後、とっておきの紅茶を入れてあげるわ」
帰りに立ち寄った専門店の紙袋を示して笑う。
その笑顔を眩しそうに見つめると、ナイトメアはもう一度心の中で繰り返した。
(……よし、今夜こそ)







「電気、消すわね」
「ああ」
かちり、と扉の近くにあるボタンを押す。
室内全体にふわりと闇が広がるが、低く抑えた間接照明が所々に備えてあるから、足元に不安は無い。
迷いなく寝台に行き着くと、アリスは先に横になっていたナイトメアの隣に滑り込む。
ナイトメアも、慣れた仕草でシーツをめくってやる。

ふと、差し入れた素足が、彼のそれに触れた。
これまでなら間違いなく感じた冷たさが、今は―――無い。
代わりに、仄かな温もりが、絡めた足先からじわりじわりと身体を温めていく。
こんなところでも彼の回復ぶりが窺えて、ほっとする。
「良かったわ…元気になって」
昼間と同じ台詞をもう一度口にして、アリスはすぐ隣にある唇にそっと顔を寄せた。
軽く啄ばむだけのキスを落とす。
「血の味も、もうしないわ」
そう言って、ふふ、と悪戯っぽく笑う。
キスをするたびに感じたあの味。
最初こそ驚いたけれど、回を重ねるごとにそれが彼とのキスの味になった。


一緒に眠るだけで、本当の意味で健全すぎる関係だった最初の頃。
最初に唇を奪ったのは、アリスの方だった。
今考えても、その時の自分の心境が分からない。
別段、欲求不満だったとも思えない。
元々、そういうことに関して、自分ははクールな人間だと知っている。
―――ただ、別の意味で焦れていたのかもしれない。
夢で、現実で、ほとんどの時間を共に過ごしていながら。
結婚しようと、幾度となく求婚してきていたにも関わらず。
彼に、本当に自分を欲しいと思われているのかどうか、全く自信がなかった。
ナイトメア自身、全くそれを窺わせなかった。

だから、試してみたかったのだ。
今まで近づいたことのなかった領域まで踏み込んだ時、どんな顔をするのか。
彼が、どう動くのか。


そして初めて唇を奪った夜、彼の吐息が途端に乱れたのを見て、深く安堵したのだ。
それから、躊躇う彼の唇を奪うのは、いつもアリスが先だった。








「……ん…っ」
小鳥のように、一方的に唇を啄ばんでいると、さすがにその軽さに焦れだしたのか、ナイトメアが喉を鳴らした。
それを合図に、少しだけ顔を離して、じっと目を見る。
「……君は、男を煽るのが上手いな」
綺麗な灰青の瞳を眇めてそう呟くと、今度は逆に深く口付けられる。
いつもこのパターンだった。
アリスが始めて、ナイトメアが引き継ぐ。
「…………ん……ぅ……」
優しいが、息つく暇を与えてくれない。
まるで水の中にいるみたいだと、アリスはいつも思う。――溺れてしまいそうだと。

遠慮がちに入ってきた舌が、そろり、とアリスのそれをなぞった。
知らず背中に回した手が、ナイトメアのシャツに小さな皺を作る。
もう無理だと指先に力を込めると、ようやく解放された。
「っ……は………」
深く空気を吸い込んで呼吸を整えるアリスの横で、それ以上に息を乱しているナイトメア。
額にうっすら浮かぶ汗を手の甲で拭ってやると、アリスは彼の息が整うのを待つ。
そうして、彼が落ち着いたのを認めると、まだ熱の残るその胸に顔をうずめて言うのだ。
「おやすみなさい」
ややあって、掠れた、けれど穏やかな声で彼も返す。
「おやすみ」と。
そうして二人でまどろみに落ちる。
互いの体温に、ゆっくりと沈み込むように。









――――が、なぜか今日はその流れにならなかった。



「………んぅ………ちょ、ナイトメ……っぁ」
終わるはずの口付けが、止まらない。
空気が欲しくて身を捩るが、頭の後ろと背中にに置かれた手がそれを許してくれない。
こんな力、知らない。
いつもなら、アリスがしたいようにさせてくれた。
キスを始めるのも、離れるのも。
彼の指は、眠るアリスの髪をただ優しく梳くものだった。
それなのに。

「ね………ぇ、……っん……は………」
閉じた目の奥がチカチカする。
いつの間にか深く侵入していた舌が、喋ろうとする度に上顎の薄い皮膚をなぞり上げて、意識を遠のかせる。
じわり、と肌から染み出すように熱が疼くのを感じる。
身震いするような感覚が、全身を粟立たせた。
こんな感覚は、知らない。

「な、ナイトメア!」
渾身の力を込めて、両手で胸を押す。
同時に、一気に肺が膨らんだのを感じた。新鮮な酸素が全身を走る。
「ちょ……ちょっと待って………ど、どうしたの……?」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、改めて相手の顔を見上げたアリスは――凍りついた。
片肘を支えにアリスを見下ろす形のナイトメアは、確かに呼吸を乱してはいたものの、微笑んでいたのだ。
切れ長の目の縁が僅かに濡れ、赤く色づいている。
それどころじゃないのに、その魅惑的な色にしばし目を奪われる。
気付くと彼を押しのけた両腕は、頭の上でやんわりと拘束されていた。
もう一方の右手で、絶句したままのアリスの頬をそっと撫でると、ナイトメアは言った。
「言っただろう?続きは体力に自信が付いてからにする、と」
どこか楽しそうにそう囁いた彼に、アリスはようやく悟った。

(忘れてた……忘れてたけど、この人、)
ふわふわとした甘い余韻が一気に冷える。
(男の人だったんだわ………!)
よく考えれば失礼すぎる。今更だ。
だが、安全地帯に長く居すぎた。
正直、警戒心なんて、かなり前の段階で無くしていた。
(しまった―――!!!)
冷や汗をかきながらの心の叫びが、聞こえたのかどうか。
身を屈めたナイトメアが、首筋辺りでくすりと笑った気がした。











「―――アリス?」

はっと書類から目を上げると、グレイが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「どうかしたのか?今日はどこか、ぼんやりしているように見える」
身体の調子でも優れないのか?
ナイトメアの腹心であり保護者(?)でもある彼は、とても優しい。
ともすれば叱られても仕方の無いほど集中力散漫なアリスに対しても、優しく尋ねてくる。

今は昼の時間帯、仕事の時間だ。

資料庫から戻ったグレイは、両手に数冊のファイルを抱えている。
彼が戻ってくるまでに、手にした書類を分類しておくはずだったのに。
「ご、ごめんなさい。えーと、はい、これで終わりです」
慌てて残りをそれぞれの山に配分して、グレイに示す。
穏やかに礼を言いながら、それぞれの山を確認しだす。
そんな彼を見ながら、アリスはしみじみと言った。

「ねぇグレイ」
「ん?どうした」
目は文章を追いながら、ちゃんと答えを返してくれる。やはり優しい人だ。
「あなたの言った通り、ナイトメアは怖い人だわ」
「ああ……え?」
顔を上げたグレイを無視して、アリスは溜息をついた。
「あの人……実はSなのよ」
「…………は?」
全く意味が分からないといった風のグレイを見て、もう一度ため息。

ずっとグレイとの掛け合いを見てきて、信じていた。
彼は…ナイトメアは、そう、どちらかと言えば“いじられキャラ”なのだと。
(私しか知らない顔ってわけ?嬉しいような、なんというか…………詐欺だわ)
徐々に顔が熱くなってきた。
「なぁアリス、やっぱり熱でもあるんじゃ…」
「戻ったぞ」
グレイの言葉を遮るように、入り口から姿を現した男。
(なんで………)
昼食を摂りに出ていた我らが上司。
そのまま仕事をサボってとんずら…なんて、毎度のことなのに。
(なんでこんな時に限って、ちゃんと戻ってくるのよ―――!!!)


上司の登場に、グレイは満足そうに歩み寄る。
体調の回復と共に、まるで改心したかのようにナイトメアの問題行動が激減した(それでも皆無ではない)ことにより、彼は最近すこぶる機嫌が良い。
「戻って来て下さってありがとうございます。あの……実はアリスが」
「わたしっ、そろそろ休憩時間だから、出掛けてくるわね」
生真面目に彼女の不調を報告しようとするグレイを遮って、アリスは部屋を逃げ出した。
恐ろしく高音でひっくり返っていた自分の声が憎らしい。
「あ、ああ、お大事にな」
見当違いな労いの言葉を掛けてくれるグレイの方も振り返らず、ダッシュで廊下へ出る。
(〜〜〜〜〜〜っ!!こんなはずじゃ…………!!!)
背後で確かに、喉を鳴らして笑う声を聞いた。




走りながら風にさらされた頬の熱は、当分治まりそうにない。










「真夜中の逆転劇」、ナイアリを書くにあたり、絶対書きたかったネタでした。
アリスからナイトメアへ主導権が移行する瞬間、これを書きたかったのですvv
あ〜書いてて恥ずかしかったけど楽しかった(笑)
淡白に見える人ほど、はっちゃけた時は凄いぜ…的なシチュエーションが好きですvv
優しくて穏やかでヘタレだけど、でも一応「男」だってこと忘れんなよ!という。
気が向いたら、割愛した部分を隠しページかなんかで書くと思います(笑)
開き直った夢魔の本領発揮っぷりを書いてみたいです。

2010.1.24 up