指先に花を










腰に回された細く、けれど強い腕。
微かに緊張を伴った吐息を、己の右半身が敏感に感じ取る。

何度かの銃声と、視線の先に倒れてゆく人影。飛び散る、赤。
前を向いたまま抱き寄せられているから、それら全ては視界に映るはず。
―――けれど。


瞬きを忘れた双眸が捕えたのは、白い指先と、振動に合わせて軽やかに跳ねる華奢な手首だけだった。








「………げ」

胃が潰れるような音を聞いて、アリスは自身の予感が的中したことを悟った。
「あ〜らナイトメア、偶然ね」
つい先程までは素直に掛けようとしていた言葉に、うっすらと作為が混じる。
「…は!ははっ、ぐ、偶然だな!君は、えーと、そう、買い物か?」
それに気付いたのか、ナイトメアは乾いた笑い声を立てながら歩き出した。
―――後ろ向きに。



(やっぱりサボりなんじゃないの)

あまりに自然に街を歩いていたから、休憩時間なのかと思ってしまった。
またしてもうっかり騙されるところだった。

「ちっが……!断じて違う!サボってなんかないぞ!?ちゃーんと任せてきたんだ、後はよろしくと。部下に仕事を采配するのも上司の義務だからな。私は素晴らしい上司なんだ!」

(えーとグレイは……)
無視して周囲に視線を巡らせる。

「……!?なぜ奴を探す!!人の話を聞け!!」

他人の心が読めるこの男。その厄介さにも慣れてしまった今、すっかり脳内会話が成り立つようになってしまった。
周囲から見れば、完全な独り言。一人芝居。
怪しすぎる。


じりじりと後ずさりしながら周囲を窺うこの挙動不審な優男が、この国一帯を治める偉大なる領主様だと、一体誰が思うだろうか。



「あんたね…いい加減、真面目に仕事しなさいよ」

溜息をつきながら、しかしアリスは用心深く距離を詰めた。

仕事から絶賛逃亡中の彼を探して、不毛な追いかけっこを日々繰り返している部下たちを見ると、なんだか哀れさを通り越して申し訳ない気分にすらなってくる。

勿論彼のやる気の無さもサボり癖も、彼女自身に負うべき責任など全く無いのだが。
妙に感じる責任感は、母性本能なのかそれとも。

「逃げ回ってる元気があるなら、書類に判子押すくらい出来るでしょ」

「なっ!君は私のどこが元気に見えるのだ!?ふふん、私は気分が悪くて外の空気を吸いに出てきたのだよ…………うっ、気持ち悪…………」

「威張って言うことじゃないでしょうが」


ナイトメアの顔色は相変わらず白い。

陶磁器のように真っ白な顔に、紫がかった唇。

この二色のコントラストが彼の言う「標準仕様」らしいので、以前ほど驚くことは無くなったが。それでも心配するのは普通の人間の道理だ。


「気分が悪いなら病院に行きなさい。行かないのなら仕事をしなさい」

「君はグレイの分身か!空恐ろしいほど言動が似てきている!良くない。良くない傾向だぞ!」

「良くないのはあんたの勤務態度と健康状態でしょう。グレイに似てきたなんて、最高の褒め言葉として受け取っておくわ」


有能で常識人。忠実且つ勤勉な彼の腹心に似てきたと言われて、喜びこそすれ悪態をつかれる筋合いは無い。
そもそも、この国に“弾かれた”時に、文句一つ言わず親身になって自分を受け入れてくれた二人の役に立ちたいと、今こうして仕事の手伝いをさせてもらっているのだから。
役に立てているならば嬉しい。ほんの少しでも恩返しが出来ているのならば。
……まあその辺について、目の前の人物には癪だから言いたくないが。



と。

ふと、気付くとナイトメアとの距離が縮まっている。
往生際悪く、少しずつ距離を取っていたナイトメアの後ろ向き歩行が止まっていた。

軽く手を伸ばせば、もうその手を取れる位置だ。


「ふふふ、ようやく観念したのね。さあ、一緒に塔へ」

帰りましょう、と言い終えないうちに、正面にいたナイトメアの右腕がゆらりと上がった。

同時に、反対の腕がアリスの身体を引き寄せる。
蝋人形のようにたおやかで美しい右手と、これに握られた無骨なものの余りの違和感に、咄嗟にそれが向けられた先を振り返る。


小さく、鋭い破裂音。

そのたびに踊る、華奢な手首。

そこから先は、まるでスローモーションのようだった。





腰を攫った腕が緩み、ナイトメアが息を吐くのが伝わった。

微かな吐息が耳朶をくすぐり、アリスは我に返る。

はっと見据えた先には、幾人かの身体が音も無く横たわっていた。

「あ……」

「危なかったな。なるべく君に見えないよう、こちら向きに引き寄せたつもりだったのだが」

くそぅ、やはり力不足か…簡単に君を振り向かせてしまうとは……

ぶつぶつと不満そうに呟きながら、左手をぷらぷらと揺らす。

「あれは」
ぼんやりと問うアリスに、ナイトメアはなんでもないように続ける。
「ああ、他の『役持ち』からの刺客だろう。私は立場的に、殺してやりたいと憎まれるほどの地位にはいないはずだからね。」
どちらかというと、個人的に恨まれている可能性の方が高いかな。
クローバーの国の領主というよりも、君を置いている家主としての方が。
ふふふ、と心底自慢そうに笑う。

「あー…あの格好は…」

知った名前が聞こえたが、正直それに驚くよりも。



「あなた、銃なんて使えたのね」
アリスを解放してすぐに、ナイトメアは握っていた小振りの短銃をさり気無く上着の内ポケットに滑り込ませていた。
その流れるような動作は、決して彼がその武具を扱うのが非日常ではないことを意味していたし、それを使用する彼の指先は、全く揺ぎ無かった。

ん?
微かに眉を上げると、ああそうか、とナイトメアは頷いた。

「そうか、君の前では初めてだったのか」

うむうむと大仰に頷く。
先ほどまでの硬質で冷たい空気は微塵も無い。
「最低限、己の身くらい守れねば、『役持ち』として生きてはいけないよ」

「でも…あなたは、夢に逃げ込むことが出来るでしょう」
グレイも言っていた。
ナイトメアは、実はこの世界で最強にして唯一無二な存在かもしれないのだと。
病弱でヘタレで甲斐性無しではあるけれども。
他人の思考を読み、身体を別の次元へ飛ばすことが出来る。
「他者から害を与えられない」という点では、確かに最も強いといえるだろう。

だからこそ意外だった。

何故か、ナイトメアだけはこの銃弾やら刃物やらが飛び交う物騒な世界において、そういうもの達から縁遠く感じていた。


「逃げ込むとは失敬な。名誉ある退散と言ってくれ」

「一緒でしょう」

軽口を叩きながら、アリスはようやく自分の頬にいつもの体温が上ってくるのを感じた。
すたすたと歩き出すナイトメアになんとなく従いながら、同時に猛省する。
(駄目だわ私……)
この世界に来て、嫌というほど見慣れてしまった銃器や刃物。
それを手にしたことに驚くならばまだしも、逆に安堵してしまうだなんて。
(随分毒されたものだわ)
よろよろと地べたに倒れこみたくなる。

「お、なかなか良い品揃えだな」
深いため息をつくアリスをよそに、ナイトメアが手を引く。
死体の山はもう見えない。
代わりに、溢れんばかりの色彩が目の前に広がる。
「あんなものを見せてしまったからな。お詫びに何か贈ろう」
ワゴンに積まれたバケツには、色とりどりの花が盛られている。
それらを真面目な顔で吟味するナイトメア。
花弁に触れる指先は、やはり先ほどと変わらず美しい。
「これ、ください」
にこにこと頷く店員さんにコインを幾つか渡し、未だ奥で物色中のナイトメアにすっと差し出した。
「……ん?これは」
「あなたにあげるわ」
差し出したのは、鈴のような小さな形が幾つも付いた、一輪の花。
「……?私は君に」
「いいの。これはこれで、あなたにあげる」
不思議そうな顔でとりあえず受け取るナイトメアを見て、ようやく笑みが浮かぶ。

(あなたにはこっちの方が似合う)
沈み込むような、捕われてしまうような赤よりも。
無縁ではいられないだろう。
けれど。



何事かを店員に告げると、ナイトメアは店から出てきた。
「よし、さて行こうか」
胸元には大事そうに握り締めた白い花。
逆の手で、アリスの手を取る。
ひやりとした彼の温度の低いそれは、花だけでなくアリスをもほっとさせる。
「どこにも行かないの。帰るわよ、塔に」
そういえば思い出したと、この好機を逃すものかとぎゅっと握り返す。
「……!ひ、卑怯な……!!」
「全然。さ、行きましょう」
笑いながら、今度は自分が手を引く。
ぶつぶつと往生際悪く文句を並べる彼を横目に、アリスはもう一度思った。

(毒されたものだわ)

しかしその感覚は、とても心地良く。








私室に戻ったアリスが、ナイトメアの気障な演出に赤面するのは、また別のお話。








ナイトメアに得物を持たせてみよう企画でした。
これはクローバーの国ですね。
ジョーカーだとほら、銃とか持たなくても…(ネタバレのため自粛)
個人的に綺麗な指(手)の人にとても憧れます。
アリスはお嬢さんだけど割と苦労人だから、白魚のような手というわけじゃなさそう。
こっそりナイトメアの手にコンプレックス抱いているといいですよ!
作中の花は鈴蘭イメージで。番外編は気が向いたら書くかもです。

2009.11.7 up