残照













夏の名残が残る昼下がり。
虫の声の涼やかさとは対照的に、気怠げな熱を孕んだ空気が冷えるには、まだしばらく日が掛かりそうだ。

その日、市から戻った望美は、自室に宛がわれた一室の縁側で、剣の手入れに精を出していた。一緒に出掛けた譲と朔は、購入した食材を使って夕食の準備中だ。
いつものごとく、半分強制的に台盤所から退散させられてしまった。

「適材適所です。」

ぴしり、と言い切られてしまった。
その言葉にはいろんな意味で納得させられるが(経験上、心当たりがありすぎる)、居候の身で、しかも数少ない女の身でありながら、自分だけ何も手伝わないのは気が引ける。
が、結局は自分がいたところで二人の手間を余計に増やしてしまうだけなのは確かなことなのだから、いっそ潔くここは引き下がる方が正しいのだろう。



リズヴァーンを師と仰ぎ、剣の手ほどきを受けるようになってから幾月。
その歳月は、望美がこの世界で生きている時間と等しい。
少年時代から武具を扱わざるを得ない環境に生きてきた九郎や弁慶たちと並ぼうとすること自体、土台無理な話だが、せめて足手まといにだけはなりたくない一心で、必死に修練を積んできた。
白龍が自分のためだけに用意してくれたという特殊な剣、その効果もあるのだろう。
剣どころか、竹刀すら生まれてこのかた握ったことの無かった手は、柄を握っていないと妙な欠乏感を感じる程度には馴染んでくれていた。
もちろん、体力や技術など己の努力で少しずつマシになりつつある部分もあるが、最低限の能力値(例えば、相手に傷を与えるだけの動きが出来る、とか)に関して言えば、白龍の、いや「神の」と言った方が良いだろうか、特殊な力の作用が大きいと感じずにはいられない。


がむしゃらに剣を振るう日々が続き、しばらくしてリズヴァーンは言った。

技だけでなく、剣そのものを磨くことを忘れないように。
優れた武士は己の得物を磨きながらその心を磨き上げるのだと。

言われてみれば、九郎も弁慶も、そしてリズヴァーン自身も、時折真剣な眼差しで自身の得物に向かっていた。
角度を変えては拭き清め、また角度を変えてじっと見詰める。
その繰り返しを、ただ無心に。

なるほど、言われるままに刃先を懐紙に滑らせていくと、その銀面が艶やかになるにつれ、心がシンと冷えていく感覚が確かに在った。
不思議なことに、どれだけ怨霊を切っても刃毀れ一つしないこの剣だが、それでも一滑り、また一滑りと静かに拭う手を止めずにいると、この刃で受け止めた多くの太刀筋がその銀面にひらりと蘇り、それを他人のように見詰める自分の醒めた目と視線が合うのだった。はっと我に帰ると、師は何も言わずに一つ頷いた。


それからというもの、時間が空くと自分の剣に触れるようになった。
そのせいか以前よりもずっとその身に愛着が沸いている。
刀自身も、より望美の想いに沿うような動きを見せてくれるようになった気がする。
…あくまでも気のせいかも知れないが。
しかし、望美は無心でこのもう一人の自分と対峙する時間が、存外好きになっていた。








ふと顔を上げると、高かった日は傾き、赤とんぼが二匹、庭先をゆるゆると旋回していた。夕暮れにはまだ少し時間があるが、だいぶ暑さも和らいだ。
気付かぬうちに、だいぶ時間が経ってしまっていたらしい。


―――まずい。


せめて盛り付けくらいは手伝わせてもらわなければ、申し訳無さ過ぎる。
朔といい譲といい、この家を取り仕切る(同じ居候の立場でありながら、譲はその家事能力の高さから、自分とは全く肩身の狭さが違っている)二人は自分に甘すぎる。
夢中になりすぎて日が落ちてしまっても、小言を言うどころか、そっと邪魔にならないようにと、自室の前に一人分の食事を運んで来てくれるほどの過保護っぷりなのだ。
いくらなんでも、そこまでの甘えは自分が許せない。
慌てて立ち上がると剣を鞘に戻し、庭伝いに回廊を急ぐ。




―――と。
角を曲がったところで、反対側の庭先から空気を切る音がした。
花や木々が整然と配置された他の場所とは異なり、小さく拓けた場所。
そこは館の主である景時が、時折鼻歌交じりに洗濯物を干している場所で、唯一無二の趣味をやめるわけにはいかない、けど周囲に知られるには余りに情けないという理由から、本人によってやや背の高い木々で囲ってあった。
見えないことはないけど、目に付きにくい。
その程度の気休めでしかないが、暇のある日は毎日そこで機嫌良く微笑む景時と、光沢を放って翻る白布がセットで見られる。
水気を含んだそれらのせいか、周りより少しだけ温度の低い空気が気持ち良く、時折望美も足を伸ばしていた。


しかし今、布がはためく音とは違う耳慣れぬ音が気になり、望美は近くにあった草履を引っ掛けてその場所へ向かった。
木立の間から、見慣れた青緑色の着物と、同系色の髪がチラと見えた。

「あ、景時さ・・・」

呼びかけた声が途中で止まる。
そこには、中空を睨んだまま無心に剣を振るう景時の姿があった。
いつもは綺麗に撫で上げられている前髪が、二、三筋、汗に濡れて額に張り付いている。
両肩を脱いだ上着すら、伝う汗でその色を濃くしていることから、かなりの長時間、彼が動き続けていたことが分かる。
しかし、それほど動いていながら、恐ろしいほどに彼の呼吸は平時と変わらなかった。

見慣れぬ姿に驚いて、ではなく。
その姿が余りに板に付きすぎていて、無意識に息を呑んだ。
利き手である右手に握った柄、そこにそっと添えるだけの左手。
両手で構える九郎よりも、どちらかというと自分に近い型だ。
それでもその動きは「花を切る」と称される望美のものとは対極に、一切の無駄を排除した、自らを囲む全てをただ切り伏せるためだけの動きに見えた。
速く、そして剣先の動きが小さい。
後ろにいる(と想定される)敵に向ける時も、景時の剣はほぼ直線を描く。
弧をつけた方が反動で力は加わるのだろうが、恐らく景時の狙いはそうではない。
この動きは、急所だけを狙う、一瞬の勝負を見越したものだ。
ほわほわした雰囲気や朔に叱られては苦笑する、そんなイメージに誤魔化されていたが、彼は紛れも無く武士だったのだ。そんなことを今更ながらに思い知った。
そして、それに今まで思い当たることの無かった自分に、今更ながら愕然とする。




「あれ〜?望美ちゃ〜ん」

やや間延びした柔らかな声。
一瞬で空気が変わる。
そこは間違いなく、優しい初秋の夕暮れ時の庭先だった。
汗に濡れた頬を袖で無造作に拭う姿に、何故か心臓が跳ね上がった気がした。
そのまま景時は立ち尽くす望美の前に歩を詰める。

が。
「あ。ごめんっ、オレ今汗臭いかも」
手前30cmほどではた、と止まると、景時は慌てたように謝った。
眉の下がったその瞳に、先ほどの虚ろな冷たさは―――無い。
ぱたぱたと忙しなく手で扇ぐと、何事も無かったかのように抜き身だった太刀を鞘にしまう。
「か、げ時さんって、刀も使うんですね」
不自然に途切れた言葉は本人には伝わらなかったらしい。
「まぁ一応オレも武士だからねー。九郎たちみたいに超絶技巧!みたいな技は使えないけど、一通りは仕込まれてるんだよね。やっぱ」
全然強くないけど。
はは、と陽気に笑って肩をすくめる。
あの太刀捌きを見せる人が、戦場に於いて強くないわけがない。
いや、戦に不慣れな自分でも分かってしまう。


あれは、間違いなく人を殺す技だ。




―――もしかして。
一瞬、冷たい想像が全身を巡った。


この人の何を知っているのだろう、自分は。

先ほど僅かに詰まった言葉に潜む、小さな恐れや動揺も、実は見破られていたのではないか?疑い出すときりが無い。
それでも今、目の前で人懐こそうに笑う男の姿に影は無く、少しずつ強張った体も解けてゆく。

「正直、驚きました。いつもあの銃を使ってるところしか見たこと無かったから」
何となく、この人には下手な嘘は吐かない方がいい気がして、正直にそう言った。
「そうだね、オレはどちらかというと先陣切って突っ込むよりも、全体の動きを見て指示出す役目の方が主だから・・・あ、九郎が特別なんだからね?総大将が一番前で敵陣突っ込むなんて、普通は無いから」
片目を瞑り、おどけたように景時が言う。
「刀は一応携帯してるけどねー。やっぱりいつものを使うことがほとんどだなー。それでも」
洗濯物の乾く合間とか、何かのついでくらいには触るようにしてるんだよね。
あんまりなまっちゃうのもまずいしねぇ。
そう言って景時は、脱いでいた上着を羽織りなおした。

「驚かせちゃったかなー?ごめんごめん・・・って、あーっ!!!」
突然叫ぶと、わたわたと慌て出す。
「もう夕方!?は、早く行かないと夕餉、―――さ、朔に叱られる!」
そこですか、と妙に脱力する。何だか笑えてきた。
「私も、手伝わなきゃって台盤所へ行く途中だったんです。早く行きましょう、今日のゴハンは譲くん特製玉子料理らしいですよ」
籠一杯に買って帰ってきた食材を思い浮かべる。
「玉子かぁ、いいねぇ〜!この時期、ちゃんと精力つけとかなきゃ。楽しみだなぁ」
さりげなくを望美を前に歩かせるようエスコートしてくれるのはさすがだ。
東男と揶揄される源氏の軍にあって、一の風流人と名高い景時は、他の兵たちとは格段に女性への対応も異なっていた。

何を怖がってたんだろ?

望美は、他愛無い話に一所懸命相槌を打ってくる景時の柔らかな目元を見上げて、急に可笑しくなってきた。
武士である景時さんが刀を使えて、何がおかしいの。
普通の女子高生だった私が剣振り回してる方が、よっぽど変。
練習中なんだから真剣なのは当然でしょ。
剣は―――人を殺す武器であることは知っている。


段々と先ほどの光景が、記憶の片隅に押されてゆく。
「あ〜〜〜今日は疲れたっ」
「あ、そうだ景時さん!どうしたらそんなに体力ってつくもんなんですか?やっぱり何か特訓とか――!?」
「え、ええ!?いやぁそりゃ望美ちゃんは女の子なんだから――」
「関係ありません!どうしたらあんなに動いて息も乱さずにいられるんですかっ」
あれだけの汗の量に比例しない静かな呼吸。自分などまだまだだ。
自省し考え込んだ望美は、うっかり漏らしたその「事実」を聞き逃さず、ほんの一瞬、景時が浮かべた表情を見逃した。

「ははっ。本当に君は頑張り屋さんだねぇ。うーん・・・そうだね、手っ取り早いのは走り込みってとこかな?」
「あ、それ、前に先生にも言われました。そっか、やっぱり地道に体力つけるしかないですよね・・・」
一人頷く望美を見下ろす眼差しは、既にいつもの優しいものに変わっていた。
「ま、とりあえず今日は晩御飯ということにしよう?」
半歩先から振り返る景時に、笑顔で答えて望美も走り寄る。


その影が回廊に消える。
そろそろ烏が鳴き始めていた。ふうわりと夜風に近い温度の風が吹く。
穏やかな秋の夕暮れ。



そこに、白布は揺れていなかった。







裏景時、うっかり目撃話です。
まぁ端的に言えばゲーム中では描かれなかった、刀を振う景さんが書きたかったと。
神子は基本的に勘の鋭い子だと思うから、何らかの“違和感”は感じてると思うんですよ。
それでも「気のせいか」程度にいなしてしまう辺り、景さんの方が一枚上手。
剣の練習するのは洗濯の合間じゃなかったのかい、と。
彼の技法は、卑怯だろうと何だろうと一瞬必殺を是とするものに違いないという妄想。


2009.11.7 up